メタクリラジオ第5回は、ヘッドホンをつけただけでコンディションが変わってしまったというタムカイの戸惑いから始まる。そこから任天堂とオープンワールド、日本語と英語、ゲームと仕事へと話は転がるが、通して見えてくるのは一つのことだ。人は自分の嗜好や視点を当たり前だと思い込んでいて、その出自に気づいた瞬間、世界の見え方が変わる。同じ出来事でも、立っている場所が違えば別の景色になる。そのズレを楽しめるかどうかが、創造性の入り口になる。
この回の核心
自分の中に埋め込まれた価値観の出自を問い直すこと。Opiが任天堂育ちの妻にスカイリムをやらせたら、最初の村でニワトリを虐殺し始めた。タムカイはそこから「自分たちの中に当たり前にこう埋め込まれた価値観がどこから来ているのかを紐解くと、実は任天堂なんじゃないか」と広げる。1アップで命を良きものと思い、ツボは割るものと思う。その文法は任天堂の砂場では通じても、社会のシミュレーションであるオープンワールドでは通じない。嗜好の違いは、育った文法の違いだった。
話の流れ
Opiが持ち込んだのはデスストランディング2。物を運ぶだけの「お使いゲー」を壮大なスケールでやりきった作品で、山を越えて目的地が見えたところでBGMがすっと入る。増水した川の前には見知らぬプレイヤーが置いた梯子があり、会うことはないのに置いたものだけが世界を超える。小島監督は1作目で「繋がることが大事」を、コロナを挟んだ2作目で「繋がりすぎるのもいかがなものか」を描いた。
一方でOpiは、任天堂のゲームは素晴らしいのに途中で挫折してしまうと打ち明ける。サービスされすぎて「接待されてる感じになっちゃう」。そこで出るのがエンタの神様のプロデューサーの言葉、笑いじゃダメ、つまんなくないとダメ。視聴者がツッコミを入れられる余地こそが本質で、タムカイは「SNSの構造とテレビ一緒ですからね」と受ける。二人は任天堂を本能のゲーム、デスストやゼルダを理性のゲームと即興で分け、Opiはメタクリラジオも遊びか仕事かで「本能と理性でずっとこう右往左往してる」と笑う。
終盤は言語の視点へ。雪国の冒頭は日本語だと「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」で列車の中にいる私の視点だが、英語版は The train came from the tunnel で、山から列車を見ている。Opiはこれを映像の視点問題につなぎ、不安だけど少し期待が入った音楽を若い子に伝える難しさを語った。
創造性の構造 27 でいえば
02. 異化効果 ヘッドホンをつける、任天堂育ちがスカイリムをやる、雪国を英語で読む。当たり前を少しずらすと、自分の文法が初めて見えてくる。
19. 受容者の設計 程よくつまんない番組が視聴者のツッコミを生み、半オンラインが見知らぬ他者との連帯を生む。受け手の参加余地をどう残すかの話だった。
14. 文脈の再構成 批判語だった「お使いゲー」を核心に据え直したデスストランディングのように、文脈を置き換えると同じ行為が別の意味を持つ。
自分の当たり前がどこから来たのかを一度たどってみると、隣の人の嗜好は、別の場所から見た同じ世界に見えてくる。

